ちくわ

うだうだ

睡魔

久しぶりに文章を書く。

 

この2週間、ぼんやりと言うと、ひどく英語を話す生活を送っていた。

ガイドのような、通訳のような、そういう経験もした。

言語やコミュニケーションについて考える2週間となった。

地元にある国内最小規模疑惑のあるアニメイトや、某鉄道ゲームのタイトルにあやかった名前の桃色店舗を英語で説明するなどした。

この活動で英語力が上がったのかは不明だが、それでも挑戦の日々を送れたことに違いはない。

 

そんなことは放っておいて。

 

眠くて眠くて頭も回らないくらい眠い時、どうすれば睡眠を避けられるのか。

 

もしも貴方が人間であるというのであれば、必ずや1度は経験したことがある授業中の居眠り。

授業についていけなくなる恐怖や授業をして下さる先生への無礼。

そしてそれらを上回る睡魔。

 

人類はそれに勝てるのか。いや、勝てない。

 

勝てないのだ。

人間が本能的に求めるという三大欲求に何が入っているか。

睡眠である。

勉強も仕事も入っていない。

そこにあるのは睡眠である。

なぜ避けられようか、避けようとするのか。

 

頰を抓っても、腕の皮膚を引っ掻いても、頭を叩いても、眠い時は眠い。

満員電車の中、美術館で絵画を鑑賞中、テーマパークでアトラクションを待っている最中、そのような環境下で眠ってしまったことがある。

人は立ちながらでも、眠ければ眠ってしまうものだ。

眠いものは眠い。

眠いものは眠いのだ。

 

睡眠こそが正義であり、正義こそが睡眠である。

人間を人間たらしめんものこそが睡眠である。

あらがうな、寝ろ。

寝てしまえ。

出来る限り早い時間に寝てしまえばいい。

健やかに眠れ。そして大きくなれ。

眠い、私は今とても眠い。

どうにでもなれ。

 

 

ちくわ

ちくわが好き。

 

あまり人に言うことは無いが、ちくわを愛している。全ての所有物をちくわにしたいと思うことすらある。

 

ツイッターのアイコンは友人に描いてもらったちくわ。スーパーへ行くたびにカゴへ落とすのもちくわ。マヨネーズに合う食品といえばちくわ。

 

しかし、「好きな食べ物は?」と聞かれたら、間髪入れずに「寿司」と答える。寿司を作った人は世界で一番スゴい。生魚を酢飯に乗せた功績を全人類が讃えるべきである。きっと、寿司がアメリカに伝わった時、全米は泣いたのだ。知らんけど。

 

「寿司の次に好きな食べ物は?」と聞かれると、「すき家の白髪ねぎ牛丼」と答える。すき家の伝説、期間限定メニューだった。今現在、販売している店舗を見ていない。これが破茶滅茶に美味い。白髪ねぎ牛丼を思い出すだけでヨダレを垂らした日すらある。白髪ねぎのシャキシャキ感とソースの辛さという最高のコンビネーションが私に「生きていて良かった」と思わせてくれる。

 

すき家の白髪ねぎ牛丼の次に好きな食べ物はチョコレートである。どんなチョコレートでも好きだ。甘くても苦くても幸せな気持ちになれる。辛い時にはチョコレートを食べる癖があるが、これは辛い度に摂取量が増えて行くから体に良くないそうだ。しかし、自分は食べ続けていくのだ思う。チョコレートの摂取過多で具合を悪くしても本望だ。ちなみに、ホワイトチョコレートにはカカオが使われていないので、厳密に言うとチョコレートではないらしい。 

 

その次くらいに、ちくわが好きだ。まず、見た目が可愛い。弱そうで好き。噛んだ時にフニャフニャと曲がるところも愛らしい。穴にはチーズなどの様々な食材を詰めることが出来る。私はマヨネーズをかけて食べるのが好きだ。マヨネーズをかけたちくわをタバコのように咥えながら歩き回り、ハードボイルドを演出できるところも魅力的である。そういう時、マヨネーズが滑り落ちてくるのを気をつけることで、ハードボイルドを維持できるよう。ところで、ハードボイルドとは何たるや。

 

いちばん好きというわけではないが、生活に必要な食材こそがちくわである。お腹が空いてきた。ちくわを食べよう。冷蔵庫にちくわのある素晴らしい世界。

バレンタインデー

2月14日。

 

例のアレである。えげつない程に生産されたチョコレートが加工されるなり紆余曲折を経て、愛を伝えるツールとなる。

 

チョコレートが好きだ。

 

チョコレートは甘くて、世界一甘くて、見た目の無機物感からは信じられない程に甘い。そんなにも茶色いのにチョコレートをオカズにチョコレートを食べたい。そのデザートにチョコレートを食べたい。

 

義理チョコやら、友チョコやら、もはや年賀状のような感覚でチョコレートを渡す風習もある。私の母は年賀状について、「人類が抱える最も難しい課題こそが疎遠になった知人に年賀状を送るかどうかを考えること」と言っていた。義理チョコなども近年では似たような問題をはらんでいる。

 

中学3年生の頃、私の配った友チョコは妹作である。料理が好きではない。手を汚したくない。高校では不謹慎ながらも「アベック撲滅委員会」と書いたステッカーをチョコレート代わりに配った。狂気の沙汰である。新婚の先生や既婚の先生にも配らせて頂いた。成績を下げられても良いような出来事だが、彼らはあまりにも優しかった。

 

そんなこんなで、本日は2月14日である。チョコレートの日である。ほとんど部屋から出なかった。アベックが怖い。街を歩くアベックが恐ろしい。帰ればいいのに。

 

一足先に帰省したルームメイトが部屋に残していった270gのピーナッツチョコレートを食べているところだが、心も歯茎も痛む。主に心が、心が。

Gen Hoshino

星野源さん(以下敬称略)が好きだ。個人的な素敵成人男性ランキングの上位に位置している。彼の人生に何の影響も無い発表である。

 

元々、星野源のことは知らなかった。テレビで見るようなってからも、彼の本職が不明瞭であるため、よく分からない人だと思っていた。

 

ある日、友人と2人でカラオケに行った。彼女はたくさんの星野源ソングを歌った。私にとっては知らない歌に次ぐ知らない歌。PVがワイワイガヤガヤとしていて面白かった。友人曰く、星野源は「踊りたがり」らしい。何曲か星野源の楽曲を歌い終わると、彼女は画面の向こうを神妙な面持ちで見つめながら、「星野源はサブカルクソ女の餌なの」と言った。

それ以来、私は星野源をサブカルクソ女の餌という職種のカテゴリに当てはめた。

 

しばらくして、「逃げるは恥だが役に立つ」のドラマが放送され始めた。最初は見ていなかったが、ガッキーが可愛いということを小耳に挟み、10話あたりから視聴した。ガッキーは可愛かった。この世の可愛いという定義を「ガッキー」にすれば良いさ。するが良い。しかし、私は気づいてしまった。星野源も可愛い。星野源の役が可愛いだけでなく、たまに見せる星野源の笑顔が私の心臓を削ぎ落とすような形でメチャクチャにした。

私はサブカルクソ女と成り果てた。

 

呪いだった。星野源のことしか考えられなくなった。何故だろう。嫌いになろうとしても嫌いになれない。彼は自分の魅せ方を知っている。罠にかかった。抜け出せないし、抜け出すことをやめた。私の魂にはサブカルクソ女がいる。彼女が出て行く気配は未だに無い。

エッセイ

「エッセイを書きたい。有名人のエッセイを見る度に思う。自分にも書けそうな気がする。」

「調子に乗るな。くたばれ」

 

そんな自問自答を最初にしたのは小学6年生の時である。さくらももこ先生に影響された。

今回は、日本が誇る本職が分からない人こと星野源さんに影響され、ついぞやブログなど始めてしまった。哀れである。故にくたばれ。

 

私は英語英語英語アンド英語な学部にいるため、エッセイと聞くと論文のようなものを思い浮かべる。

そんなものはどうでもいい。今は休暇中だ。春休みよ永遠に。

ここでは、いつも依存しきっているツイッターの140字制限を気にしないで済むとなると、頭がおかしくなる。

140字を超越するということは、それだけ文章に無駄な装飾を付けることが出来る。何百個でも絵文字を打てる。打たない。

 

エッセイと言えば、高校で「新書を読んで感想文を書こう」というようなテンションの課題を出されたことがある。長期休みのことであった。

新書どころか本なんて滅多に読まない私は新書を探すべく、とりあえず学内の図書館に向かった。

本棚にギチギチと詰め込まれた数多の白い背表紙。「この本を買え!」と言わんばかりの奇妙なタイトル群。その中から課題のために1つの本を選ぶという行為自体が課題のゴールであることを願ったが、そうはいかない。

しかし、その中に一つだけ妙に目立つ青色のカバーに入った本があり、妙ちくりんさに惹かれた私はタイトルもロクに見ず、それを課題に使うと決めた。

 

タイトルも内容も思い出せないが、知らないオバサンのエッセイであった。そして、文体が鼻についた。どうも新書ではない。しかし、長期休みも終盤に近づき、新たなる新書、新新書を探しに行く時間は無かった。

知らないオバサンのエッセイを無理矢理とは知りながらも、あたかも新書であるかのように評論した。誰が悪いのか。その本を新書コーナーに置いた図書館の司書さんか。その本を選んだ私か。その本を書いたオバサンか。

とにかく私は必死だった。かしこそうな文章を書いた。オバサンの変に女々しい文章を頭の良い文体に変える努力をした。よくやったと思った。課題の採点結果は知らない。数年前に焼却炉で燃えたのではないだろうか。

 

このような文章作成で無茶をする機会は、生きていれば再びやって来るような気がする。そのためのブログであり、そのためにエッセイのようなものを、なり損ないでも良いので書いていきたい。