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ちくわ

うだうだ

エッセイ

「エッセイを書きたい。有名人のエッセイを見る度に思う。自分にも書けそうな気がする。」

「調子に乗るな。くたばれ」

 

そんな自問自答を最初にしたのは小学6年生の時である。さくらももこ先生に影響された。

今回は、日本が誇る本職が分からない人こと星野源さんに影響され、ついぞやブログなど始めてしまった。哀れである。故にくたばれ。

 

私は英語英語英語アンド英語な学部にいるため、エッセイと聞くと論文のようなものを思い浮かべる。

そんなものはどうでもいい。今は休暇中だ。春休みよ永遠に。

ここでは、いつも依存しきっているツイッターの140字制限を気にしないで済むとなると、頭がおかしくなる。

140字を超越するということは、それだけ文章に無駄な装飾を付けることが出来る。何百個でも絵文字を打てる。打たない。

 

エッセイと言えば、高校で「新書を読んで感想文を書こう」というようなテンションの課題を出されたことがある。長期休みのことであった。

新書どころか本なんて滅多に読まない私は新書を探すべく、とりあえず学内の図書館に向かった。

本棚にギチギチと詰め込まれた数多の白い背表紙。「この本を買え!」と言わんばかりの奇妙なタイトル群。その中から課題のために1つの本を選ぶという行為自体が課題のゴールであることを願ったが、そうはいかない。

しかし、その中に一つだけ妙に目立つ青色のカバーに入った本があり、妙ちくりんさに惹かれた私はタイトルもロクに見ず、それを課題に使うと決めた。

 

タイトルも内容も思い出せないが、知らないオバサンのエッセイであった。そして、文体が鼻についた。どうも新書ではない。しかし、長期休みも終盤に近づき、新たなる新書、新新書を探しに行く時間は無かった。

知らないオバサンのエッセイを無理矢理とは知りながらも、あたかも新書であるかのように評論した。誰が悪いのか。その本を新書コーナーに置いた図書館の司書さんか。その本を選んだ私か。その本を書いたオバサンか。

とにかく私は必死だった。かしこそうな文章を書いた。オバサンの変に女々しい文章を頭の良い文体に変える努力をした。よくやったと思った。課題の採点結果は知らない。数年前に焼却炉で燃えたのではないだろうか。

 

このような文章作成で無茶をする機会は、生きていれば再びやって来るような気がする。そのためのブログであり、そのためにエッセイのようなものを、なり損ないでも良いので書いていきたい。